「電波温故知新」余滴

附録 電気工学か、それとも漢文学に進むか

ー恩師永井健三先生よりの御手紙ー

平成16年5月  佐藤源貞

§1. 「電波温故知新」の研究会

平成16年5月28日(金)、東北大学電気通信研究所2号館4階大会議室に於て、URSI電波研連C分科会(委員長 大平孝)が主催し、「電波温故知新」を標題とした研究会が開催された。その講演者と題目は次の通りである。

1.       東北大学大学院 沢谷邦男教授

移動体通信用アンテナの設計のための数値解析と評価

2.       岩手県立大学長 西沢潤一先生(東北大学大学院 須藤健教授代講)

仙台における独創の系譜ー八木アンテナから光ファイバーまでー

3.       東北大学大学院 安達文幸教授

次世代超高速無線通信の技術課題

出席者は会場一杯の数十名であり、東京農工大学助教授神谷幸宏先生司会のもとに進められた。出席者は遠方よりの方も少なからず、且つ年齢も大学院生より古稀の年代までにわたっていた。

 各講師の題目はその御専門とするところであり、非常に充実した熱のこもった講演であり、出席者に多大の感銘を与えた。

 講演の終った後は、東北大学名誉教授の安達三郎先生、国際電気通信基礎技術研究所技術リエゾンセンタ長多田順次博士、東海大学教授進士昌明先生が夫々質問とか、有益なコメントを述べられた。

§2. 王智林さんの論語解説

 さて、私は旧知の多田順次博士の姿が目につき、その隣りに座った。私のすぐ後には、外国人女性を含む三人の若い方が座っていた。これら若い人々、勿論外国人には標題の「温故知新」の熟語は知ることもないと思い、私は後をふりむき、不要の紙を頂戴して「温故而知新 以為師矣 論語為政第二」の文字を書いて示した。

 これに対し、なんと最も年上と思われる男性が目を輝かせ、これを声を出して何やら読んだようであった。私には、これが何であるかは、すぐには判らなかった。彼は中国東北部の長春の出身の中国人であり、その名は王智林、安達文幸教授研究室に所属するドクターコース(博士課程)2年次生とのことであった。彼は突然母国の古い時代の文章に接し、非常に驚くと共に大いに喜び、他の2人にこれを説明し始めたのであった。この情景に接した私は、この講演の終了後に、この章句を説明するように彼に頼んだのである。勿論、司会者の了解を得てのことである。

 彼は演壇に立ち黒板にこの章句を書き、この説明を日本語で行うと共に、最後に中国語でこれを朗誦した。この出来事に、会場には拍手喝采の音が鳴り響いたのであった。これを慫慂した老生は、破顔一笑を以てこれに応じたのであった。この様子を写真撮影していたのは、山口大学真田篤志助教授である。

§3. 温故知新とは

 この言葉の解釈について、何人かの漢学者の解説を要約して以下に記す。

      諸橋轍次著 中国古典名言辞典 講談社 昭和4711

(子曰、)温故而知新。(為政)

何事にもあれ、過去をたどり、それを十分に消化して、それから未来に対する新しい思考、方法を見つけるべきだ。

「温故知新」ともいう。現在は過去なくしては存在しない。しかし、過去だけにとらわれては新しい世界は展けない。過去を無視し去って、ただ新しきにつくのもまた、失敗を招くものである。

      鎌田正・米山寅太郎著 漢文名言辞典 大修館書店 平成79

温故知新

古いことを研究して、そこから新しい知識や見解を開く。また、すでに学んだことを改めて学びなおして、そこに新しい意味を見いだすこと。伝統の上に立って新しく現代を認識する。故は、古いこと。温は「たづぬ」とも「あたたむ」とも訓ずる。習熟する意。復習の意に解する説もある。

故(フル)きを温(タズ)ねて新しきを知る・故きを温(アタタ)めて新しきを知る。

孔子の言葉である。孔子はいう、「過去の事柄や学説などをじっくりと学び、そこから現実にふさわしい新しい価値・意義を再発見できるようになれば、人を指導する立場に立つ資格がある」と。

子曰ハク、故(フル)キヲ温(タズ)ネテ新シキヲ知ラバ、以テ師為ルベシ、ト。

      吉田賢抗著 論語 明治書院 昭和365

子曰、温故而知新、可以為師矣。

子曰く、故きを温めて新しきを知れば、以て師為るべし。

孔子言う、先人の述べた学、いわゆる過去の事柄や学説などをくりかえし研究し、一方では現実を処理する新義が発見できるようになれば、人の師となる資格があるものだ。

温「アタタム」とよむ。「タヅネル」とよむ説(朱注)もある。重ねて習い十分熟すること。研究の意。

人の師たる者は、温故に停滞してもいけないし、新奇をてらって知新に先走ってもいけない。温故だけでは、いかに広くとも百科辞典にすぎない。

新奇だけでは人を誤らせ、堅実味がない。須らく過去の事柄や学説を十分究めて遺漏なきを期すると共に、現実に即応した新しいものを発見発明して、宇宙の変化に応じ、進化の原則に順わなくては学問の意義がない。

      吉川幸次郎著 論語 上 朝日新聞社 昭和343

  子曰、温故而知新、可以為師矣。

  子曰わく、故きを温ねて新しきを知れば、以って師と為るべし。

  温故知新という言葉は、だれでも知っているものであり、また「四書」の他の一つである「中庸」にも、同じ言葉がある。温故、故きを温ねる、の温とは、語源学家の説によれば、肉をとろ火でたきつめて、スープをつくることだという。ところで、この条の孔子の言葉は、温故而知新、可以為師矣であり、温故知新ということが、教師の資格となっている。故とは過去の事象、歴史の意味といってよいであろう。歴史に習熟し、そこから煮つめたスープのように知恵をまず獲得する。そうしてかく歴史による知恵をもっているばかりでなく、あるいは、もっていることによって、新しきを知る、現実の問題を認識する、それでこそ、人の教師となれる。人の教師となるほどの人物は、そうでなければならない。

   後漢の思想家、王充の「論衡」には、この条を敷衍していう、古きを知りて今を知らざる、これを陸沈という、歴史を知って現実を知らないものは、陸沈、陸上での溺死だ。今を知りて古きを知らざる、これを盲瞽という、現実を知って、歴史を知らないものは、盲だ。、故きを温ねて新しきを知りてこそ、以って師と為る可し、古きも今も知らずして、師と称するは何ぞや。

  王充は奇矯に流れやすい思想家であるが、この言葉は正しいであろう。

  また皇侃の「義疏」の説が、「故」をみずからの過去とすることについては、子張第十九(下冊三一二頁)を参照。

§4. アンテナの学問

 老生の専門は、電波工学特にアンテナである。電波の理論はすべて、イギリスの生んだ稀有の科学者マクスウエル(J. C. Maxwell)の創案したいわゆる電磁界方程式に基礎をおく。この理論を提唱したのは1864年(元治元年)であり、明治維新(1868年)の4年前のこと、現在(2004年、平成16年)よりは140年前のことである。

 現在に於ては、コンピュータを用いて非常に複雑な構造のアンテナでも、その特性を数値解析することが可能になってきている。これを聞いた人の中には、コンピュータ万能の感を抱くかも知れない。

 これとは正反対に、アンテナの専門家にはこのように考えるのは誰一人もいまい。アンテナの数値解析の基礎となっているのは、マクスウエルの電磁界方程式であり、コンピュータはその尨大な数値計算を遂行する装置であることを、知っているからである。

 このような計算法を創案したのは、アメリカのハリントン教授(R.F.Harrington)などの方々であり、1960年代の中頃のことである。

 140年前のマクスウエルの電磁界方程式、約40年前のハリントンの数値解析法。これに基礎を置いて、現在では複雑なアンテナの解析が初めて可能となっているものである。これら先人の功績を基礎として、現在のアンテナ工学は発展しているのを忘れてはならない。これこそ、研究会の標題である「電波温故知新」に他ならない。いみじくも、この研究会を表徴するこの言葉を選んだ支那古籍に造詣の深いお方は、一体誰方なのでありませうか。委員長の大平孝博士と想像しております。

 なお、記し忘れたが王智林さんと一緒の若い方は、大学院修士課程の福田郁さん、モロッコよりの女性EL ALAMI LALLA SOUNDOUSさんであり、共に安達文幸研究室である。

 研究会が終り、帰路についた。電気通信研究所を出て、道路1本を隔てて大学構内(片平キャンパス)に入った。ここで偶然に一緒になった鰹コ和真空の青木一郎氏、山梨大学大学院の平間宏一博士と共に、アメリカ電気電子者協会(IEEE)より贈られた八木・宇田アンテナのマイル・ストーン(里程標。科学技術などの道標となる画期的な出来事)を訪ねた。

 その少し先には、魯迅の学んだ古い時代の教室が残っており、午後5時の勤務時間を過ぎたが東北大学の職員は我々をそこに案内してくれた。我々三人は、昔々、近代中国の文豪魯迅が医学生(仙台医学専門学校、現在の東北大学医学部)であった時に座った席のあたりに、座って記念写真をとって貰った。とても親切な方であった。なお、後に青木氏より「東北大学キャンパス」と題しての数葉の写真を贈って頂いた。なお、今年は魯迅の留学百周年にあたるという。

 今まで総長室などのあった東北大学本部は、片平丁正門よりのつきあたりの木造2階建にあったが、今年の41日、大学が行政法人になってよりは昔の理学部化学学科の立派な建物に移転していた。

 この建物は近代的鉄筋4階建のクリーム色のもので、その前庭は芝生、そして大きな松の木が何本も植えられており、東北帝国大学時代の建築物の代表となっているものである。この建物が、大学の法人化に従い、大学法人本部と新設の法科大学院の教室となったのである。この建物は永年閉鎖され外部より眺めるしかなかったが、新装の扉を押して中に入れば、その空間はすべて純白の塗装も新たに、新建築の観がある程に美麗であり、壮厳でもあった。これ、正に温故知新なりとの感を抱いたのであった。

 なお、この筋向いには旧法文(学部)2号館があり、これも永く閉鎖されていたが、再生されている。この隣りにあるのが東北大学資料館で、これは大正14年に東北帝国大学附属図書館として建築されたネオ・ルネッサンス様式の瀟 洒なもので、2階屋上の白亜を土台にして緑色のトンガリ塔がよい目印となっている。これを設計したのが、同学工学部建築科小倉強教授である。仙台近郊大河原町にある拙宅も、同教授の設計によるものである。




附録

電気工学か、それとも漢文学に進むか

ー恩師永井健三先生よりの御手紙ー

 「電波温故知新」を標題にした本日の研究会は、東北大学電気通信研究所にて開催された。この魅力ある漢籍の言葉「温故知新」と、講師のお名前とその演題にひかれて、老生は出席したのであった。そして、会場にて偶然会った中国人にお願いしてその言葉の説明をして頂いたことは、本稿本文中に記した通りである。

 さて老生は、今より60年近くも昔の昭和1910月に、東北帝国大学工学部通信工学科に入学した。それは敗戦の10ヶ月前のことであり、我が軍は敗退し続けていた。

 大学の講義は小生にとっては極めて難解で、殆ど理解出来なかった。抜山平一教授の電気理論第一部、即ち電磁気学は難解中の最たるものとのことであり、永井健三教授の電気理論第二部、即ち交流理論は少しは理解出来たような気がした。その他の学科も、私の頭脳では殆ど理解出来なかった。

 こんな状況の下、私は中学校や高校で多少は馴染みのある漢文の方に転科を考えざるを得なかった。そのことを記した永井先生より私宛の御手紙が、手許に残っている。それはその時より40年近くも経過した昭和58925日付のもので、

  父君(注.小生の父)は源貞さんが東北大に入られた時、「おまかせするから今後よろしく」といって来られました。そのうち源貞さんが文学部に転科したいというので、父君が相談にみえました。私は、工学部を終えてから文学に進まれたらどうですかと、おすすめしたのを覚えています。あの時文学に進まれたら、今頃はちがった漢学者になっておられたと思います。

と、温情溢れる文字が記されております。小生の父は、永井先生とは仙台一中(現在の仙台一高)時代よりの友人である。

 八十に近い老生の若冠二十の頃の出来事が、このように記されて残っており、正に汗顔一斗の思いである。勿論転科はせず、その後永年先生の許にあって大学院学生、無給及び有給の副手、助手、助教授として、通信工学、特に先生の御専門の伝送工学やアンテナ工学の御指導を賜わったのである。

 さて先生の講義は、交流理論の象徴のようなej?t(エプシロン・ジエー・オメガ・テイ)の文字を、黒板に独特の丸みを帯びて書かれるのであり、流麗なお声と共に名講義とされておりました。

 この時のノートが今でも手許に保存しており、これを写真に示した。ノートの表紙には、

永井教授 電気理論U 通信 佐藤源貞

と記してあり、最初の頁は、

1.電気勢力 Electric power

2.交番起電又ハ交流

より始まっている。

 これが、小生の初めて学んだ電気工学である。これ以来、先生には何十年にわたって御教導を賜った次第なのである。

 さて、ここで老生の思い出すのは、

辛苦遭逢起一経

  辛苦に遭逢するは 一経より起る

の詩句である。これは宋王朝滅亡の時、文天祥の詠んだ「過零丁洋」(零丁洋を過る)と題する賦詩の冒頭の句である。それは700年程前のこと、漢民族の宋王朝が満州よりのモンゴル族に侵攻され、大勢はすでに決していた頃、文天祥は孤軍奮闘し、遂に捕われの身となった。

 文天祥は富裕の家の長男に生れ、厳格な教育を受け、科擧(高等官僚登用試験)に一番の成績で合格したいわゆる状元及第の文官である。状元及第の栄誉に感激した文天祥は、文官の身でありながら、宋王朝滅亡の時、その節義を守り、武将として敵と戦ったのである。

 この孤軍奮闘の辛苦は、その源は何かと言えば、科擧受験のために最初に読んだ一巻の書物に起因する、との意である。

 顧みれば、老生の六十年に及ぶ電気工学の最初の第一歩は、恩師永井健三教授のあの交流理論の講義であったのである。若し、その頃幼稚な我意を通していたならば、「今頃はちがった漢学者」にはあらずして、私は尾羽打ち枯らした腐儒になっていたに相違ない。師恩と親の恩の重きを実感すること、一入のものがある今日である。